2007年12月16日星期日

変わる価値観、日本の未来像は(3)

フリースクールは子供の学習意欲を尊重する

シム・シャオチェン 
前アジアネットワーク客員研究員(マレーシア・南洋商報コラムニスト)

子供が「学校に行きたくない」と言うと、親は「学校に行かないと、将来は何もできないよ」と叱るものである。いつからか学校に行くことは子供の義務となった。子供たちにとって、この義務の重圧は自分のカバンよりはるかに重い。

フリースクール東京シューレを設立した奥地圭子氏は、「義務教育は大人の義務だ。子供を強制的に学校に行かせるのではなく、子供が健康的に成長できる良い環境を作らなければならない」と主張する。「自由、自治、個の尊重」を理念とするフリースクール東京シューレは、登校拒否の子供たちに勉強の楽園を提供してきた。

この学校は、2003年4月に「第37回吉川英治文化賞」に受賞した。「受賞したのは子供たちが努力したおかげ」と奥地氏はいう。

日本では、早くも20年、30年前から、登校拒否の現象が現れ、いじめ事件もよく聞かれるようになった。実際、いまなお、このような状況は大きくは改善されていない。しかし、前進したのは、「登校拒否は病気ではなく、子供がリラックスした環境の中で勉強したり成長することが大事」ということを親たちが徐々に理解してきたことである。文部科学省も、伝統的な教育制度以外の異なる教育を積極的に取り入れることになった。現在、日本全国に約300校のフリースクール(free school)がある。

フリースクール東京シューレを設立する前まで、奥地圭子氏は中学の教師を勤めていた。教壇に立って20年あまりの78年、長男(当時中学校3年生)が転校した後、いじめに遭い、登校拒否になった。

奥地氏は子供を無理やり学校に行かせたが、その結果、その後の二年間、長男は拒食症になった。この時、彼女ははじめてことの重大さを意識した。彼女は「登校拒否を考える会」を設立し、ほかの保護者と意見交換の場を設けた。85年、子供たちに自由な勉強や遊び場を提供するため、東京シューレを設立した。

「シューレ」とはギリシア語で「精神自由」の意味である。東京シューレはいまでは王子シューレ、大田シューレ、新宿シューレの分校を三つ持つまでに発展した。学生は約200名、年齢も7歳から18歳までまちまちである。教育方針は、個の自由を尊重することであり、学校の堅苦しい教育に関心を持たず、いじめを受けた子供をシューレという大きなファミリーに仲間入りさせている。校則や校服、教師、試験や競争など一切ない。

授業の内容も学生が議論する中で決定され、分からないところは大人が指導する。勉強がうまくいけば、卒業できる時点で卒業する。毎週一回の会議で大人と同じように一票の発言権を持ち、自ら勉強や活動内容を決める。99年4月、東京シューレ大学が設立されたが、ここでは学生は自分が関心を持つ学科を勉強できるようになった。自分で熱気球を作り、熱気球に乗る夢を実現した学生もいる。

登校拒否の子供が社会に変な目で見られないため、奥地圭子氏は長年にわたり、「登校拒否は病気ではない」と人々に訴え、人々の誤った考え方を是正するために活動してきた。

日本文部科学省の資料によると、00年度、登校拒否の日数が30日以上に達した小中学生は過去最高の12万8千人余りに上った。登校拒否の理由もさまざまであるが、学校でいじめを受けたり、先生とクラスメートとの付き合いがうまくいかないなどで、子供たちの学習意識も大幅に低下し、無気力などの「症状」が出始めた。

こうした登校拒否児の親はどうすれば良いか分からず、非常に悩んでいる。88年9月、『朝日新聞』の夕刊が登校拒否をトップニュースとして取り上げると、大きな反響を呼び起こした。登校拒否児をもつ親たちが大きなショックを与えた。

この記事は、筑波大学助教授の稲村先生(故人)の著作の内容を引用し、「登校拒否症」を早く治療しなければ、「無気力症」に変わる危険性を指摘し、子供を指導するだけでは問題を解決できず、さまざまな治療法を取り入れるべきだと指摘した。

登校拒否児の親たちは、この記事を読んだ後、子供を精神科に連れて行ったり、あるいは学校の先生たちが記事のコピーを登校拒否児家に郵送し、親たちに早く医者に行くよう勧めた。またたく間に「登校拒否」が疫病のような怖い「病気」となり、登校拒否児は「異常」や「心の病気」があるのではないかと考えられ、登校拒否が大きな話題となった。

このような登校拒否に対するショックを抑えるため、奥地氏は「登校拒否を考える会」と東京シューレを通して自治体の人々を集め、この問題を正しく認識するよう訴えた。結局、300人の会場に800人が集まり、熱い議論が行われた結果、新聞社へ抗議することになった。

奥地氏の抗議は『朝日新聞』に対するものではなく、すでに亡くなられた稲村助教授が登校拒否を「病気」とみなしたことに抗議したのだった。この考え方は、子供には不公平な見方であり、登校拒否を改善することができないだけでなく、社会からの偏見や軽蔑をさらに深めることになる。奥地氏は、「この報道を通して、子供が登校拒否になる理由や教育を受ける自由の大切さを広く国民に知らせるきっかけになった」という。

奥地圭子氏にインタビューする前、東京シューレが今年4月11日に、講談社が主催する「第37回吉川英治文化賞」を受賞したことをインターネットで知った。彼女に会ったとき、お祝いを申し上げたら、彼女は、「本当に嬉しかったが、驚いた。自分が文化的に貢献しているとは思いもよらなかった。これは子供たちの努力のおかげであり、受賞したのは子供たちだ」と話した。

18年間の努力が認められたことは喜ばしいことである。特に、東京シューレはNPO組織であるため、組織は会員の会費で支えられており、赤字になることも多い。学校設立されて18年が経ったが、子供たちは成長し、就職などの時に学歴がないことは問題にならなかった。彼らの多くは大学や社会人大学に入った。彼女は子供たちのことをほこりに思っている。

日本は典型的な学歴社会である。奥地氏は自分の若い頃を思い出す。そのころはまだ、10人に1人しか大学生になれなかったが、いまは2人に1人が大卒である。学歴重視の社会でありながら、東京シューレの卒業生は豊かな勉強経験で学歴不足を補っている。自分で熱気球を作ったり、鉄道に沿って田園風景を探ったりといった経験は、点取り虫の一般学生をはるかに超えている。

ここ18年で、登校拒否に対する社会の考え方が変わったと奥地氏は言う。まず、「登校拒否は病気ではない」と一般的に認めるようになり、子供が軽蔑されなくなった。次に、無理に子供を学校に行かせる親が減った。第三に、登校拒否の子供の行ける場所が増えた。登校拒否問題を正しく認識させるために文部科学省が92年に「適性指導委員会」を設置したことも含め、民間非営利団体によるフリースクールやフリースペースなどが増えた。ただ、学校教育や学歴重視の点はまだ変わっていないが。
 
実は、登校拒否は国際問題でもある。社会の認識レベルが異なるため、各国のフリースクールの進展もまちまちである。

2000年東京シューレが主催する第8回世界フリースクール大会に10カ国から約200人が参加した。奥地氏は、韓国の登校拒否の深刻さも日本と変わらないことに驚いた。韓国のフリースクールは政府からの支援を受けており、ソフト面でもハード面でも日本より整っているという。

「最も重要なことは、子供が自分の個性を保ち、どんな困難にぶつかっても自分で考え、対処すること」、「いつも子供に強制的に努力させるのは誤った考え。長い人生の中で立ち止ったり、周りの景色を楽しむことも充実。教師の私も、自分の子供が登校拒否になったときに初めて、人生の道はひとつではなく、もっとさまざまな選択があることが分かった」と奥地氏は話している。

**子供と悩みを分かち合う

「学校に行きたくないのはかまいません。学校に来て一緒にお話をして、ご飯を食べよう」。もし校長先生がこのように生徒に話しかけたら、あなたはどう思うだろうか?登校拒否の子供に対して、学校側が簡単にあきらめず、あらゆる方法を使って子供の気持ちをつかもうとしている。

横浜市神奈川区の市立神大寺小学校の齋藤惣太郎校長は、登校拒否児への責任感が人一倍重い人だ。彼は、大人が対応を誤れば、子供にますますプレッシャーをかけることになると訴えている。
神大寺小学校は神奈川県下で最大規模の小学校であり、生徒数は860人余りにのぼる。今年春、子供たちが元気いっぱいの姿で登校してくるなか、当番の教師たちが子供たちの安全を守るため、路上に立っていた。

昨年、神大寺小学校では登校拒否をした生徒が兄弟2人と女子児童2人の合わせて4人であった。校長と親の努力のおかげで、2人の女子児童はすでに学校に復帰しているが、2人の兄弟は相変わらず登校拒否の状況が続いている。彼らは毎日昼ごろ、母親に連れられて学校へ給食を食べに来る。そして、校長や教師に挨拶した後、母親と一緒に家に帰っていく。

「子供の登校拒否は、家庭と大きく関係がある」。斉藤校長は神大寺小学校ではいじめがないと言う。「一番多いのは、家で母親に頼りすぎて、母親がそばにいないと不安になる子供たちだ。このような子供は母親から離れたがらない」。

いやなことがあった場合、1年生はすぐ泣くので、先生もすぐ分かる。しかし、3年生になると、だんだん物事を分かり始め、いやなことがあっても我慢する子供が多いため、わかりにくい。学校の先生も特に気を配らなければならない。一般的には、1週間ぐらい欠席した生徒がいると、担任の先生が校長に報告する一方、電話で子供の親に連絡を取り、欠席の理由を詳しく調べる。病気や手術などの理由で欠席するケースとは異なり、登校拒否のケースは特別に処理することになる。また、30日以上登校しない子供がいたら、文部科学省に報告をしなければならない。

授業に出たがらない子供は、保健室で話をしたり、自分の好きなことをしてもいい。これまで、神大寺小学校の保健室は薬を提供したり、体調不良の児童に休憩の場を与えるなどに利用されてきたが、今では登校拒否児の「居場所」としても活用されている。登校拒否の児童が学校に復帰するまでの間、学校と密接な関係を保つため、保健室で先生とお話をしたり、ほかの生徒と一緒に昼ごはんを食べることになっている。

齋藤先生が担任だったころ、児童の栄養バランスを考えて、「給食は必ず全部食べる」というルールを作った。その後、欠席する児童が多くなり、しかも、給食で野菜が多い日に欠席が目立つようになった(学校は生徒に毎週、給食のメニューを配っていた)。欠席した児童の親に連絡を取ると、児童は野菜嫌いで欠席していたことが分かった。

齋藤先生は、自分も乳製品が嫌い。誰でも好き嫌いはあると考え、このルールを改めた。「嫌いな食べ物でもなるべく食べるようにして」と児童に言うようになった。

登校拒否児は親同伴で学校に来ている。保健室で女子児童の悩みなどを聞いてアドバイスするうちに、カウンセラーになった親もいる。登校拒否の生徒は、しばらく学校を休むと、教室に戻りたい気持ちがあっても、授業についていけないことを心配して、戻りにくいことがある。そこで学校は、登校拒否児の親に対して、教育委員会所属の家庭支援センターを訪ねるか、あるいは支援センターの家庭派遣スタッフに指導してもらうよう、勧めている。

齋藤先生も「登校拒否は病気ではない」という。「登校拒否では親の責任が非常に重い。親の対応がよくなければ、無理やりに学校に行かせると、子供たちにとってプレッシャーにしかならない。子供は教室に戻りたい気持ちが非常に強くても、いろいろな悩みを抱えている。

学校側が電話して催促すると、彼らはますます焦りを覚える。このような逆効果を防ぐため、先生は毎日電話しても挨拶するだけで、学校側から子供たちに学校復帰を催促するようなことはしない」「子供たちが学校に来る気持ちがある限り、われわれ学校側は彼らの悩みをともに分かち合い、力になりたいと考えている」と話している。

*Posted to Asahi website on 2003/09/18.
(http://www.asahi.com/international/aan/kisha/kisha_015.html)

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